割れは克服するものか理解するものか・・・
今の季節であればそんなこともないですが、一昔前の夏場であれば倉庫は木材たちのにぎやかな「乾燥音」があちこちで聞かれました。
前回の写真にあるように、一見驚くような割れが入るのが普通の光景でした。
それが普通ではなくなったのが乾燥材の普及。
今では乾燥材というと人工乾燥材を想起するくらいに当たり前になったのは、やはり「驚くような割れ」が原因の一つになったのは間違いないと思います。
もちろん、割れが入るということは木材が自身の変形収縮によって力の逃げる場所がなくなり、割れとなって現れるわけですから、収縮によって構造材の隙間ができるために緊結しているボルトが緩むこと、ぴったりくっついていた部分に隙間ができる事などの点も、普及のポイントになっています。
昔はこうだった、というのはあることを批判的に例える場合に用いてしまう表現ですが、確かに昔は日本の住宅では一般構造材においては乾燥材というものはほぼ無く、それが当たり前であって割れることも割れて音がすることも普通に起こることで、生活の中で慣れていたもの。
階段はミシミシと音のするもの、床は傷つき経年変化のあるもの、それとともに構造材は乾燥が進んで収縮変化するものでありました。
そんな環境の中で、木造住宅においての木の事を多少なりとも自然に学んできたんだと思います。
その「普通の光景」は、生活スタイルの変化や建築様式の変化で木の性質ができる限り現れないようにする建築が多くなり、木の性質が現れないために「音や割れ」に対することを学ぶ機会もなくなりました。
生活の中で自然に学んでいたことを学ぶ機会がなくなったのです。
それは、山に行くことがなくなり林業の事がわからなくなることや、木材がきれいな梱包とともにいつでもどこでも入手できるようになったことから、自然の産物であるという意識が薄くなったことにもつながると思います。
しかしそれも、木材を利用する側である消費者の求めた結果のこと。
それは決して間違いではないと思いますが、やはり木の事を学ぶきっかけが遠くなったことに変わりはありません。
木と人の関係が遠くなってしまった今では、できるだけ木の持つ性質が表に出ないようにしなければ、「こんなはずではなかった・・・」ということで、「割れがあることは問題」になってしまいます。
木は生き物。乾燥材であっても水分を含むもの。
水分を含むことができるからこそ、周りが乾いた時には水分を吐き出して、反対に湿気の多い場合には吸い込んでくれるのです。
木材を利用する側は、この木材が持つ自然の調湿作用を期待しているにもかかわらず、調湿作用の途中でも起こる割れを許容しようとしないのです。
また、木材を販売する側もその特徴をきちんと説明できないがために、割れを防ぎたくなるのです。
それが高温乾燥材になり、集成材になり現在の多くの住宅に見られる様式につながっていきます。
背割りの柱の場合は時間をかけて、木の性質のお話から進めないといけないということです。
そんなことなら集成材で十分、高温乾燥材のほうがいい。
それもいいでしょう。
しかし、基本的にはその特徴を理解だけでもしていなければ、「割れてはいけない」という結論になってしまいます。
木を扱う側はしっかりと情報提供すること、木を使う側は理解すること、それは木を通してお互いが理解を深めることにつながります。
木造住宅を建てたい、木を使っていろんなものを作りたい、という場合にはお互いが信用して理解しあえる環境が必要です。
そうなれば、割れは「あってはいけないもの」ではなくなるはずです。
割れは、決して克服するだけではなく、理解するという選択肢もあるということです。
すでに無垢フローリングや無垢の一枚物テーブルなどでは、乾燥割れや節での割れは、きちんと理解され利用されているものの、構造材その他になると、途端に受け入れられなくなる。
構造材の割れは、建物の強度に影響があると思われるからなのはとても理解できます。
しかしながら、最初から「あってはいけない」とするのではなく、理解することとともに、扱う側から教わる環境も引き出してほしいのです。
木の事を知り尽くした大工さんや材木屋さんだけが正しいわけではありません。
曲がりをそのまま利用できる人ばかりではありません。
だから、その利用方法と求める品質に合わせてお互いの考えをきちんと伝えあうことが大切。
一方的に割れを恐れて割れの無いものを求めることでも、割れが仕方ないと押し付ける事でもない、木材が本当に活きる方法がそこにあると信じています。
割れを理解することから始まる木とのいい関係。
割れは、克服するだけのものではありません。自然の産物が教えてくれることを理解することが、とっても重要だというメッセージなのかもしれません。