2011年01月29日
西岡棟梁のお話
いきなりですが担当戸田昌志、読書が大好きです。
どれくらい好きかというと、以前調子を崩し入院していた時のことですが、忙しい毎日で読書の時間がとれずにいた為に、この機会逃すまじ!!とばかりに家内に頼んで、書架の肥やしになっている未読の本たちを病床まで連れてきてもらったのですが、「ルパン三世 カリオストロの城」の負傷後のルパンが食べ物をむさぼる様に(わからない方はぜひ見てくださいね。私の一番好きなルパンです。)、片っぱしから本たちを貪り読んでいたわけで、その量が半端なく、雑誌サイズもあったからなのですが、その本の入れ替えにいつもなにやら重たそうな紙袋を下げてくる家内が不審に見られていたくらいの、大量の本を読みました。
それくらい好きです。(伝わりにくいか…笑)
昔、本を購入した時のブックカバーにありました。
「本は知識と教養の泉」
出会った人たちからもそうですが、本からもたくさんの事を学んできました。
しかし、その後退院してからはまた読めない日々が続いていますが、先の出張の折、いつもは車での移動なのですが遠方だったため電車を使っていたこともあり、久しぶりにゆっくりと本と向き合うことができ、一人で「ウン、ウン。その通りです!」と変に頷いたりしながら読書していたわけです。
そしてその時に読んでいたのは、大工棟梁としてあまりにも有名な、故西岡常一氏よりの聞き書きの本でした。
ずっと前から読みたくてしょうがなかった本です。
読んだ感想は、受け取る方の考え方次第ですので、私から申し上げることは差し控えますが、一つだけ、どうしても記事にしておきたいものがありましたので、したためる事にしました。
それは、
「住む人の心を離れ住居なし」
一読瞭然ですね。
個々の考え方や思想、社会通念などはそれぞれあると思います。
その時代の事情があると仮定して、建築や工法、材料もそうでしょう。
しかし、この言葉はいつの時代も変わらないものであり、個々の考え方以前の物の様に思います。
住む人の事を考えず儲けに走る人、住む人の事を考えずに見た目の奇抜さを優先するデザインで遊ばしてもらおうとする人、材料の適材適所を考えずに使う人。
この人たちはもう、住む人の心を離れているわけです。
自分たちの為にしてるわけです。
それぞれ仕事ですから異論はあるでしょうが、そういう問題ではなく、やはり住む人の心を組み入れて建てる家でないと、それはもう「住居」ではないのかもしれません。
基本的に、西岡棟梁の様な宮大工(昔は寺社番匠と呼ばれていたそうです。)の方は、民家などの住宅建築は手がけません。
けがれる(失礼ながら、聞き書きの通りに…)といわれて、民家などを建てることはないそうです。
西岡棟梁の自宅も、よその人にしてもろた、と書いてありました。
ですので、この言葉は住居を手掛けることはないのでしょうが、そういった気持で仕事せい!という意味の訓なのでしょう。
私の経験では深い意味までは想像に及びませんが、一般建築とは遠い存在の西岡棟梁ですが、本の最初から最後まで、終始頷き倒しの出張の移動であり、こんな時代だからこそ、記事にしておきたいと思う、心動いた言葉の一つでした。